2017年1月30日月曜日

丹後半島 古社巡礼⑤ 2017.01.03

 朝からの小雨今だ降りやまず こちらの暗雲垂れ込めるお山は福知山市大江町城山(標高427m) 前回更新の大宮売神社よりバスと丹鉄で移動しお昼前に到着しましたが 残念ながら本日晴れ間は望めそうもありません 昨日までで神通力発現は終了しましたね
 すっかり更新をサボっていました 写真のUPと記事はもうとっくに書き込んではいたのですが なにぶん怪しい場所の雰囲気とある意味「アブナイ」部分がありありの場所だった為延ばし延ばしになってしまいました
 右手に垣間見える鳥居が午後の目的地 元伊勢内宮皇大神社で御座います 城山は又の名を日室ヶ嶽と称し美しい富士山型の山容であり 神体山として崇め奉られており中腹には磐座があり古代祭祀の場であったとの異聞もありますが禁足地の為公開されていません
年末からの元伊勢巡礼 この午後の三社で完結ですが 果たして旅の目的は達成できたのか否か(なにが目的だったかすっかり忘れてますが)
では以下に福知山市大江町元伊勢伝承三社をご覧下さい



大江町内宮門前町の様子 社家又は御師と呼ばれる人々が明治初期まで居り 外宮内宮の参拝講の宿泊の手配や神官への取次又は周辺諸国への神札配布や祈祷布教を行っていたそうで その名残の町並みが今でも門前町らしい風情を漂わせている  
町並みの中ほどから壱之鳥居と城山を窺う お山はやや雲が切れてきたか な?
引っ切り無しに参詣の人々が行き交う参道 雨は未だ降ったり止んだり 傘の開いたり閉じたりを繰り返す
雨に濡れた自然石の石段 間隔も大きさも不揃いで二百段ある 参詣はご老体が多く足元不安定でやや心配 途中に大江山の鬼退治伝説に登場する麻呂子親王(用明天皇第三皇子)御手植えの大杉の古木三本(うち二本は台風で倒木し切り株のみ残る)
参道途中に厄除けの御門神社と神籬であるところの磐座が鎮座する 御祭神の奇岩窓神(クシイワマドノカミ)と豊岩窓神(トヨイワマドノカミ)は岩戸隠れした皇祖天照大神を岩戸の中でお守りした二柱の神であるという
参詣の善男善女で溢れかえる境内と杉の木の樹皮がそのままになっている黒木の神明鳥居このような樹皮そのままの鳥居はあまり例が無いらしい
本殿はもちろん皇祖天照大神をお祀りし 向かって右の脇殿には岩戸を引き開けた天手力雄命をお祀りする 左側の脇殿は皇孫をお産みになった栲機千々姫命をお祀りする
拝殿本殿の周囲をぐるりと取り囲んだ末社 これはその一部だがその数80社とも90社とも言われる 其々全てに整備と装飾と御供えがきちんとされている 現在は神職が一社一社心を込めてお努めを果たしているのでしょう 昔はこれを門前御師が其々の担当を分けて行っていたと伝えられている 各地の一宮の御分霊や天津神々国津神々有名な春日様愛宕様熊野様 はたまた古代豪族の御祭神までたいへん広範囲に渡った末社の数々おやおや浦嶋様までいなさる とふと足を止めなにか抜けているナ絶対あるはずの何かがナイ なんだろうなんだろう 何がないんだろ あれれ あれか あれがないや 絶対ありがちな 八幡神が居ないや 神様の格と時代が違うのかしらなんて考えつつ お祀りするなにか基準かシキタリでもあるのかしら?どなたか何故に八幡神が勧請されていないのか御教授下さい 


奥宮天岩戸神社への移動途中に城山(日室ヶ嶽)遥拝所がございます 全くここから見ても見事な三角形=ピラミッドになっており この遥拝所からの願い事は『一願成就』の伝説があり 大事なただ一つだけの願いが必ず叶う稀有な遥拝所で御座います 
わたくし?私事惑星調査員は唯無心に手を合わせ頭を垂れたのみであります
奥宮天岩戸神社へ到着です ものすごい場所に御本殿が鎮座しています 参拝する為には岩盤の鎖を使って登らなければなりません 雨で結構滑りやすくなっておりましたが
上から見降ろすとこんな感じ 滑ることを除けばまぁ高いとこ好きな調査員にはやや物足りない
御祭神は櫛御毛奴命(クシミケヌ)とあり建速須佐之男命の異名と云われるが櫛を取ったミケヌって名前は神倭伊波礼彦命=神武天皇の幼名が若御毛奴でそのお兄さんが御毛奴だったような気がした・・・常世の国に旅立ってそのまま帰らなかったとかなんとか 岩戸隠れした原因の神様=スサノオを岩戸の神としてはお祀りしないよなぁ常識的に・・・
とかなんとかつらつら考えつつ宮川の流れをぼんやり眺めてるとなんか引き込まれそうな流れですが なんとかここは踏みとどまり現世に戻ってきました
ぇーあんまり頑張って岩登りしなくともここから遥拝できますよーっと 滑り落ちて怪我しないようにね~
一巡り参拝と山歩きとやや「アブナイ」調査を行い内宮と門前町を離れました 一体なにが「アブナイ」のかは別項を設けるか検討中の為ここでは触れず 福知山市営大江バスで外宮に移動します 8名?乗り位のワンボックスカーでした
外宮豊受大神社 参道入り口なのですが ただの山道にしか見えませぬ 鳥居も御座いませぬ なんか怪しいです
山道というか 農道のような 参道らしさのかけらも御座いませぬ 本当に参道なのでせうか ほんと怪しいです
山道を進んでなんとなく到着しました 御参道は今は廃棄されているようでした
参道突当りにやはり樹皮残しの黒木神明鳥居と手水舎社務所等が在りました 本来外宮から参拝が基本ですが本日はイレギュラーで一番最後になってしまいました 
でもなんか怪しいんです
拝殿と左右の脇殿 左殿多賀之宮 右殿土之宮 背後には風之宮と月之宮 その他末社が三十七社 この構図は先の内宮皇大神社と同じです
御本殿にはもちろん豊受大神をお祀りしておりますが 内宮皇大神社ほど整備が行き届いては御座い居ませんようで まぁ失礼を顧みず言ってみれば廃墟感やや醸し出されております
本来の参道 というか現代の車社会用駐車場のある出入り口 参詣のお客様は内宮皇大神社程多くはお見えにならず 静寂がやや支配した境内でただ一人神職がお札を燃やしていました
 この大神の鎮座する山は船岡山と云われ ふと思いつくのは年末巡礼した比治眞名井神社の帰り道にお邪魔した船岡神社 規模は違うが同じように平地からぼんっと突き出たお山の頂上にお社が鎮座する構図 後で地形図を見ると宮川が不自然に蛇行し勾玉型のお山が残っている 人工物だとするとかなり巨大で やはり年末夕暮れに登った竹野神社の神明山古墳を凌駕しそうな大きさである もしも古墳だとしたら被葬者ははたしてどなたであったのでしょう
 しかし怪しい と云うか廃れた感が余りにも惨いレヴェルであった 一応外宮のお役目で鎮座しているのでしょうが もう地元の方々にも半分見捨てられてるんじゃないかと 同じ構造で同じような御神木と伝説がある内宮が近くにあることだし しかも祭礼まで同じようなことが行われているようでして これはなんかもう次元の狭間か歴史の地層の表土のやや下に埋もれ始めているのかな と感じ取れました 
外宮参拝後ふと集落の先を見ると二宮神社と云う小社をお見受けしたので参拝いたしました 境内整備がしっかりなされた凛々しい神社でした 御祭神等の情報は一切御座いませんが 不思議な瘤のある欅の木がありました
 清浄な地にて今回の旅の目的が達成されたのか否かを問うと どうやら年末歩いた竹野川に沿った地域 現代の京丹後市域に海と山を川で繋いだ文化圏又は当地大豪族の勢力圏があったと考えられ 其れが3世紀乃至4世紀にヤマト王権と提携した事実が四道将軍丹波県主命の伝説となって現代に伝わっており 当地の巨大前方後円墳もヤマトの文化がその連携によってもたらされたものであると 又元伊勢と名乗る他の地域(宮津・大江)より竹野川流域の方が神域の熟成に深度が在ると感じ取れた 
①何よりも開化帝~彦坐王~丹波県主命の系譜と治績が当地に今も残る
②竹野神社=神明山古墳=開化帝妃竹野比売とその父丹波大県主由基理の存在
③同じ流域に鎮座する大宮売神の天皇家守護としての存在
④豊受大神の天降った地としての比定地が数か所存在し本来の眞名井社が鎮座する
⑤当時当地の斎宮の存在=神の「コトバ」を生む比売命=日女命をヤマト王権が無視できないはずであり 又は取り込んだ結果が後のヤマト王権だったのか でなければ当地に縁のある比売が数代に渡って帝の妃になるはずがなく そしてそれは帝の現世の名前の通り入り婿だったはずだ であれば本家はこちらではないのか! とますます想像だか妄想が広がってしまうのであった
 その筋の人々が読んだら怒られそうなのでいいかげんここまでにしておくが 今回の年末年始の丹後半島古社巡礼 其々が元伊勢を名乗ったり主張したり比定されている式内社を主軸にその関連する周辺の神社 又は旅の途中で引き込まれた?村落の氏神様や地祇道祖神路傍の神々等かなりの数の参詣参拝を行い チャンスがあればインタビュー・取材を行い なんとか自分の中では合点のいった部分もあり 又納得のいかないものもあったが 次回取材の足掛かりがすこしできたかなと思います 古代の文化や生活や観えない姿形をなんとか蘇らせるべく今後も活動してまいります 取材を快く受けて頂いた神職の皆様に最大の謝意を申し上げます 有り難う御座いました
 
では此れにて失礼を 次回更新まで暫しサラバッ


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