2017年1月8日日曜日

丹後半島 古社巡礼① 2016.12.31

年末大晦日早朝の朝日に照らされた鳥居は京丹後市峰山町久次に鎮座する比沼麻奈為神社であります 今回の旅で真っ先に参拝し調査を行いたかったのがこちらの神社でした
この年末から正月にかけての丹後半島の旅 主に元伊勢を名乗る内宮、外宮、真名井社に相当する其々の神社と周辺の特に重要な四箇所の神社を巡り歩いた旅でありました
概要は年末に京丹後市 比沼麻奈為神社 金刀比羅神社 竹野神社 間人三嶋神社
年が変わって元旦に 宮津市 籠神社 真名井神社 天橋立神社
二日に 伊根町 宇良神社
三日に 京丹後市 大宮売神社 福知山市 皇大神社 天岩戸神社 豊受大神社
合計12社 京都丹後鉄道と丹後海陸交通バスと自分の脚による古社巡礼であります
まずは年末の京丹後市内の神社からご覧下さい


年末の朝陽があたる神明造の拝殿本殿 美しく整備され大変清々しい境内にある拝殿内で宮司さんが正月準備を進めていました 作業が終わるのを待ち少しお話をお聞きしました ありがたいことに早朝にも関わらず茶菓の接待までして頂き 大分長くお邪魔をしてしまいました 以下要点をまとめとして 宮司さん曰く
①当社呼称は延喜式神名帳にも振り仮名を弐重に書き込まれており、然るに「治」と「沼」を書き写す時点で間違えたのではないかと察する。
②故に当社は比沼と書いて「ヒジ」と呼称する。
③集落の名前は「久次」と書いて「ヒサツギ」と読むがこれも元々「ヒジ」と読み、久美浜町との境界の峠の名は比治(ヒジ)峠である。
④元来当社は現在地よりやや下流、現在の祓地の場所に社殿が鎮座し、此処からは土器破片等よく出土した。
⑤故に延暦二十三年(804年)止由気宮儀式帳の雄略天皇への夢神託に登場する比治の真名井の止由気大神とは当社にお祀りしている御神である。
⑥丹後丹波と国が分かれる前は当地は丹波(タニハ)圀=田庭圀であった。
⑦皇統系図の写しを示され開化⇒崇神天皇とその異母弟である日子坐王の系譜に多くの妃が当地より出ており、ヤマト政権に対する丹波地方の重要性が良く分かるとのお話をされた。
宮司さん宅の御家族が里帰りだとのことでお迎えにこれから出る とのことでもありあまり長居も申し訳なく いろいろ資料も頂き大変感謝の意を伝え最後にその皇統系図に開化帝妃に竹野比売命の名を見つけさししめし 「この竹野媛でありますが一部でこれこそ日女命その人ではないのかと話題になっておりますが」と伝えると 宮司さん曰く「所謂卑弥呼とお呼びする方は箸墓古墳のヤマトトトヒモモソヒメであります」との認識を示されました なるほどおっしゃる通りですとその場は辞したのでありますが まったく年末の忙しい日の早朝からつまらない客が来たものだと思われなかったか心配してしまいました
丹後海陸交通バス 五箇バス停への道すがら船岡神社なる寂れた神社があった為参拝したところ 当社の謂れを書いた説明看板を読みやや驚いた
説明文によると「この地に四道将軍丹波道主命の館があった為「府の岡」と呼ばれ それがいつしか船岡と呼ばれるように変化した 丹波道主とは崇神天皇の弟の子であり 崇神天皇即位十年に四道将軍に任ぜられ丹波の真名井が原に館を作り 豊受大神を祀り八乙女に奉仕させ善政を行い人々に徳を慕われた」とのことであった まぁ地方官の出先機関位のものが此の地にあったのでしょうか 先入観無しに参拝してちょっと面喰いました
日本一短いアーケード商店街を極秘調査しつつ次なる目的地は京丹後市峰山町に鎮座する 金刀比羅神社であります
峰山藩第七代藩主京極高備公の熱心な御勧請によって文化八年(1811年)建立されました こちらも正月の御準備で忙しそうでございました 特に夜間のお参り用に照明の準備を念入りになさっておいででした お参りに来て怪我して帰られたんじゃ困りますものね

こちらの神社に何用がおじゃるのかともうしますと ただ単にこの狛犬ならぬ

狛猫様っ!!
牙がやけに鋭いですねっっ
狛猫様 ちょっとお顔が怖いッス
ということで 機織養蚕の守護である木島神社のお仕い番?をなさっておいでです
養蚕=お蚕様と絹糸に害をなす鼠の天敵としての猫の存在を狛犬の形に仮託しているようです



色とりどりに絵付けされた狛猫様 ちゃんと数えてないけど200体位いるのかな?
はたして狛猫様とお呼びしていいのかどうか 本当は意見が分かれると思いますが お稲荷様のお使いの狐はその像が在っても狛狐とは言われないように 又はほかにも牛や兎や猿等も居りますが あれらはあくまでも神様のお使いで在って 守護神像ではないと考えるのですが 
正月準備の整った御神門と太鼓橋に亀池 今夜から明日明後日にかけて参拝の善男善女で境内は埋め尽くされることでしょう 今はまだ静まり返ってその御神の御威光で周囲を圧倒しているようです もちろん天竺から伝わった宮比羅(クンビーラ・クビラ)⇒金毘羅大権現ではなくその根本におわすのは大倭の守護神国家平安の大神=大物主神でありましょう
静かな京丹後市峰山町内から更に丹後海陸交通バス(以下略して丹海バス)に乗り網野町経由旧丹後町間人へ移動しました
間人小間港城嶋の麓に鎮座する三嶋神社 間人と書いてタイザと読ませる難読地名 その謂れは聖徳太子の生母である穴穂部間人皇女の故事に因んでとのことであるが どちらかというと食通であればその名を冠した間人カニ(松葉カニ=越前カニ)で有名であり こちらの小間港と隣の大間港より小型船で沖合に出漁する為希少価値が高いと言われております 食べたことないけどねっっ
城嶋より小間港を望む 本日は大晦日でもちろん休漁であります この城嶋は名前の示す通り丹後守護職一色氏の武将荒川武蔵守の居城址であり 天正六年(1578年)織田家武将細川藤孝に一色氏が攻め滅ぼされるまで当地の守護を務めていたそうです
その城嶋より久美浜町方面を望む こんな暗くて怖い海に出漁したくありませんっっ
というわけで人っ子一人居ない間人の街を後にして丹海バスに揺られて次なる本日最後の目的地へ向かいます
古の参道を進み弐之鳥居をくぐった先に
本日の最終目的地 延喜式神名帳竹野郡大社竹野神社であります
三之鳥居の先に続く静謐が支配する神聖な境内 
正月準備の整った唐国風中門 
文政十三年(1830年)再建された一間社流造竹野神社本殿と斎宮本殿 斎宮に御祭りされております竹野媛命様が 本日早朝比沼麻奈為神社で宮司様に質問した開化帝妃竹野比売命様でありまして 古代丹波豪族=丹波大県主由碁理の娘であるとのことであります 
竹野神社鎮座地に接して全長180m強の巨大前方後円墳「神明山古墳」が存在し 古代よりこの地はヤマトと肩を並べる強大な古代祭祀と経済文化の最先端地であったと考えられます
斎宮=竹野比売命が竹野神社本殿祭神=天照大神をお世話する形 そのまま伊勢の現在の外宮内宮の関係と一緒ではなかろうかと考えますが如何なものでしょうか
竹野神社本殿で祭祀が始まりました 大晦日でお忙しいでしょうしお邪魔になってはいけないので色々疑問質問もございましたが今日は此れにてこの場を離れ隣の神明山古墳に登りました
方形部より円墳部を望む 円墳部直径129m高さ26m とのこと 
この時間になって(午後4時前)やっと日が差しそれは夕日となって古代巨大前方後円墳を照らしていました  まるで天照国照がごとく夕闇迫る前の一時の古代からの燭光で御座います
丹後の山並みにも夕陽が注ぎます 現世の穢れを祓うが如し
夕暮れ迫る古参道と路傍の神 不勉強である故夕陽の名残と路傍の神様仏様に明日からの旅の安全とお天気のお願いをして本日の宿へと丹海バスで移動しました 
まずは巡礼一日目から自分の中では思いっきり核心に触れた旅になってしまいました
古代ヤマト王権への丹後の役割 まだまだ明日以降の旅でその確信を固いものにしていきたいと考えました 当ブログをご覧の皆様には長々と失礼しました では後日更新まで暫しさらばっ


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