写真は京丹後市大宮町周枳(すき)に鎮座する式内明神大社である大宮売神社のご参道であります 水たまりが大分出来ています
今日は最終日 大宮売神社参拝の後 昼には福知山市大江町に移動しなければなりませんが なかなかこれが一筋縄では掴み切れないお社でございました
更新が大分遅れました しかも又長くなりそうな旅行記ですがどうぞご覧ください
小雨のぱらつく壱之鳥居と参道
大宮売神社二座とは鎮座する神様が二柱 大宮売神(オオミヤノメ)若宮売神(ワカミヤノメ)の二柱の神様がお祀りされているのです
弐之鳥居と拝殿
やっと雨が上がり少し陽がさしてきたようです こちらでも宮司さんが早朝から元旦祭の後片付けをしてらっしゃるようです 参拝の後に少しお話を伺いました
整備された境内と拝殿 一対の石燈籠は国指定重要文化財であり移設のうえ屋根囲いを行ない保存されている
特に向かって右側の石燈籠には「徳治弐年三月七日」(1307年)の銘が刻まれている
春日型石燈籠というものだそうで1307年は鎌倉時代中期~後期にあたり 第二次元寇=弘安の役から26年後 後醍醐天皇の新政による鎌倉幕府滅亡はこれよりやはり26年後のことである
古代祭祀之地石碑 境内全域が京都府指定古代祭祀史跡となっている
境内とその周辺は弥生時代前期からと考えられる大量の土器片出土物があり 特に弐之鳥居周辺からは古墳時代中期~後期に祭祀に使用したと考えられる土器片が出土しており 古代祭祀の場がそのまま神社の形に発展していく過程が垣間見える 此処からは勝手な妄想だがと前置きするが もちろんその場には卜占を行ない神憑りしてカミの「コトバ」を発した大きい宮の日の巫女=女命=皇女が必ずいたと考えられる 故に八神殿のオオミヤノメノカミと呼ばれているのではないのか
旧御本殿 元禄八年(1695年)造営 昭和五年に現在地へ移設 その後第二次大戦の御慰霊をお祀りする忠霊社とする
境内に数多くある摂末社の内 天照皇大神・八幡大神・春日大神をお祀りするお社
その背後の森は禁足の杜となっており なんびとも立入りを許されない まぁ【マムシ注意】と書かれた木片が立ち木に打付けられているのが目に入れば特に用も無く立入りたくありませんっっ
境内周囲を堀跡が廻っており 又周囲四箇所に毘沙門天社・摩利支天社・牛頭天王社・弁財天社が囲って神仏習合結界を形成している宮司さんの手が空いたところで少しお話を伺ったが やはり氏子社中に支えられて運営しているお社であるためいろいろ御苦労がおありの御様子であった 半分世間話になってしまったが 国指定石燈籠の諸々の話 ここでは公開できない話を伺い良い勉強になった 又某宮津市内神社についてのやはり諸々の話 なかなか面白く拝聴させて頂きました 話好きのよい宮司さんでありました
周枳公民館にて 「周枳」と書いて「すき」と読む難読地名だが 周枳は白村江(ハクスキノエ)のスキすなわち村のこととか 周枳のキは城崎のキ すなわち城があったのではとか いろいろな説が飛び交っているようだ
周囲を堀で囲まれ神仏結界で守られた=城のようだね 大きい宮の日の巫女の神憑りによるカミの「コトバ」を持つ大宮売神社=神社があれば氏子がいるから村があるよね その神社のパンフレット又は弐之鳥居脇にある神社由来の掘られた石碑によれば オオミヤノメノカミ 即ちアメノウズメノカミとある まさしく神憑りして八百万の神々と天の岩戸から皇祖天照大神を引き摺り出した張本人であり そして後に芸能の神となって 又後に猿田彦と夫婦になって道祖神となり天孫ニニギノミコトは元より全てのヤマトの人々の道を照らしだす猿女君の天鈿女命 又同じく御祭神のワカミヤノメノカミとは同じく石碑によれば豊受大神のことであり 元伊勢の一般的な図式とはややベクトルの違う弐柱の神々をお祀りする古社でありました
しかしこの後バスと丹鉄を使って福知山市大江町まで移動し その地の神社を三社 同じ項目に載せるには非常に重くなるため ここは一旦項目を〆て次回更新で完結としましょう 最終的な結論が果たして出るのか出ないのか さぁはたして結果は如何に如何にっ
では次回更新まで さらばっ
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